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歴史探訪
榮州 錦城大君 神壇
朝鮮王朝ユネスコ世界遺産서원

榮州 錦城大君 神壇

慶尚北道 榮州市 순흥면 소백로2767번길 5

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場所紹介

榮州錦城大君神壇は史跡第491号に指定されており、朝鮮の世祖の時代に端宗の復位を図って無惨に禍をこうむった錦城大君(名は瑜、世宗の六男、端宗の叔父、首陽大君の四番目の弟)と、順興府使・李甫欽、およびその事に連座して殉節した義士たちを祭る場所である。朝鮮の世祖元年(1455年)、端宗から王位を奪った首陽大君一派は、錦城大君に謀反の濡れ衣を着せて朔寧に流配し、再び広州へ移配した。翌年、成三問・朴彭年などの死六臣が上王復位運動に失敗して惨たらしく犠牲になると、その事に連座したとして、錦城大君は再びこの順興へ流配され、囲籬安置された。錦城大君は当時の順興府使・李甫欽と意気投合し、端宗復位のための檄文を作らせて、密かに順興の郷に集まらせた。軍費を集め、武器を整え、軍士を調練して、寧越に流配されていた端宗の復位を図る挙事が熟していった世祖3年(1457年)の秋のある日、密議を漏れ聞いた順興府の一官奴の密告により、官軍の襲撃を受けた順興の郷は、一面が火の海と血の海となる殺戮を受けて廃府されてしまった。それから200余年が過ぎた粛宗9年(1683年)に順興は名誉が回復され、続いて粛宗45年(1719年)に郷の人・李基隆が府使・李命熙に知らせて、壇所が設けられることになった。錦城大君神壇が今の姿を備えるに至ったのは、英祖18年(1742年)に慶尚監司・沈聖熙の申請によるもので、壇所を整え、中央に錦城大君位、右側に府使・李甫欽位、左側に無名の義士位を祀り、殉義碑を建てた。*錦城大君神壇(史跡第491号)ここは、朝鮮の世祖2年(1456年)に成三問など死六臣の端宗復位運動に連座し、順興に囲籬安置されていた世宗の六男・錦城大君が、順興府の李甫欽および郷中の儒林とともに端宗の復位を図って失敗し殉節したため、その霊を祀るために設けられた祭壇である。端宗復位運動が失敗すると順興府は廃府された。その後、粛宗9年(1683年)に順興府が復元され、殉節した義士たちが伸冤されると、同45年(1719年)に府使・李命熙が壇所を設け、英祖18年(1742年)に慶尚監司・沈聖熙が壇所を整えて位を祀り、殉義碑を建て、毎年春・秋に享祀を行ってきている。