
三国時代
尚柱寺(群山)
全羅北道群山市西水面咸安路 57-29
地図で見る場所紹介
大韓仏教曹渓宗第17教区本寺である金山寺の末寺で、鷲城山(チュィソンサン)の東側の麓に位置している。百済武王7年(606)に新羅の慧空大師が建てたと伝えられる。上柱寺(サンジュサ)は幾度にもわたり改修したというが、当時この地域は百済の領土であったため確かではない。高麗恭愍王11年(1362)に慧勤が再興して現在の名に改め、高麗末に恭愍王がこの寺を訪れて国家の安寧を祈願したと伝わる。これが縁となって、寺の名を『国の柱』となる寺という意味で、『留まる(住)』の字を『柱(柱)』の字に変えて、今のように上柱寺と呼ぶようになったという。当時、鷲城山内には上柱寺に属する庵が9つもあり、僧侶だけでも約200人余りにもなって、飯を炊くときには米のとぎ汁が下の村まで流れ下ったという。こうした話から見て、かつては寺の規模が非常に大きな寺であったことが分かる。三尊仏の上の天蓋(閣)には龍頭が彫られているが、本来は2基だったものの、1基は日本統治時代に日本人が略奪していったという。棟の上には青瓦が二つ載せられており、上段には一定の間隔で11個の龍頭が置かれている。